佐久間信盛 | 織田家筆頭家老の栄光と失脚

目次

はじめに

戦国時代、織田信長のもとで筆頭家老として権勢を誇った佐久間信盛。
信長の父・信秀の時代から仕え、桶狭間の戦いや石山本願寺攻めなど、織田家の主要な戦いに参加してきた重臣でした。
ところが1580年8月、信長から突如として19ヶ条にわたる「折檻状」を突きつけられ、高野山へ追放されます。
なぜ長年の功労者が、このような厳しい処分を受けたのでしょうか。
この事件は、織田政権が血縁や年功序列を重んじる中世的な組織から、成果主義に基づく近世的な軍事組織へと変貌する転換点を象徴しています。
信盛の生涯を通じて、戦国の組織改革と実力主義の厳しさを見ていきましょう。

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佐久間信盛 | 「退き佐久間」が辿った波乱の生涯―織田信長に追放された筆頭家老|hiro | ゆる歴史かわら版 はじめに 天正8年(1580年)8月、戦国史に残る衝撃的な事件が起こりました。 織田信長の筆頭家老として30年近く仕え、数々の戦で功績を挙げてきた佐久間信盛が、突如として...

目次

  1. 織田家筆頭家老としての栄光
  2. 「退き佐久間」の真意
  3. 石山本願寺攻めと5年間の停滞
  4. 19ヶ条の折檻状──信長の怒り
  5. 追放とその歴史的意義
  6. まとめ

1. 織田家筆頭家老としての栄光

佐久間信盛は1528年頃、尾張国愛知郡山崎(現在の名古屋市南区)に生まれました。
父・信晴の代から織田家に仕える譜代の家臣であり、信長よりも6歳年長でした。
1556年の稲生の戦いでは、信長と弟・信行(信勝)の家督争いにおいて信長側につき、勝利に貢献します。
多くの重臣が信行を支持する中、信盛が信長を支えたことで、筆頭家老としての地位を確立しました。

1560年の桶狭間の戦いでは善照寺砦の守備を担当し、今川義元討死後には要衝である鳴海城を与えられます。
これは信長が信盛を織田家の中核として位置づけていたことを示しています。
その後も姉川の戦い、比叡山焼き討ちなど、織田家の主要な軍事行動に参加しました。

2. 「退き佐久間」の真意

信盛には「退き佐久間」という異名がありました。
後世では「逃げ足が速い臆病者」という否定的な解釈もされますが、実際には全く異なる意味を持っていました。

戦国時代において、撤退戦は最も高度な指揮能力を要する戦術でした。
敵の追撃をかわしながら軍の秩序を保って退却することは、部隊の壊滅を防ぐために不可欠な技術だったのです。
信盛はこの撤退戦の指揮に優れており、「退き佐久間」は本来、その堅実な用兵を称賛する呼び名でした。
猪突猛進型の柴田勝家が「掛かれ柴⽥」と称されたのと対照的に、信盛は慎重で確実な部隊運用を特徴としていました。

しかし、織田軍が拡大し、圧倒的な兵力で敵を殲滅する戦略へと移行するにつれ、この「慎重さ」は次第に「消極性」というネガティブな評価へと変わっていきます。

3. 石山本願寺攻めと5年間の停滞

1576年、天王寺の戦いで対本願寺戦の司令官だった塙直政が戦死すると、信長は信盛をその後任に任命しました。
このとき信盛に与えられた権限は織田家中で最大規模でした。
三河、尾張、近江、大和、河内、和泉、紀伊の7ヶ国から与力(応援部隊)が配属され、根来衆も含む巨大な軍団を指揮することになったのです。

ところが1576年から1580年までの約5年間、戦線は膠着状態に陥ります。
信盛は積極的な攻勢に出ることを避け、砦を築いて本願寺を遠巻きに包囲する持久戦に終始しました。
「兵を損なわずして勝つ」という彼本来のスタイルでしたが、信長が求めたのは敵に絶えず圧力をかけ続ける動的な包囲戦だったのです。

同時期、明智光秀は丹波を平定し、羽柴秀吉は中国方面で活躍し、柴田勝家は加賀を平定していました。
他の方面軍司令官が次々と成果を上げる中、信盛だけが目立った戦果を挙げられませんでした。

4. 19ヶ条の折檻状─信長の怒り

1580年、朝廷の仲介により石山本願寺との和睦が成立します。
ところがその直後の8月12日、信長は信盛・信栄父子に対して19ヶ条にわたる折檻状を突きつけました。
信長自らが筆を執った極めて異例の文書でした。

折檻状の主な内容は次のとおりです。

軍事的無策:
5年間天王寺に在陣しながら、積極的な攻撃も調略も行わず、ただ漫然と時を過ごした。

報告の欠如:
5年間、一度も信長に作戦の相談や報告をしなかった。

与力の酷使と私財蓄積:
他国から預かった与力ばかりを使役し、自分の直臣を温存した。領地からの収益を軍備増強に投資せず、私的に蓄財した。

過去の失態:
1573年の一乗谷城攻めで「我々ほどの家臣は他にいない」と口答えしたこと、1572年の三方ヶ原の戦いで平手汎秀を見殺しにして撤退したことなどが蒸し返された。

茶の湯への耽溺:
武功もないのに茶の湯に傾倒し、高価な茶道具を集めていたことが批判された。

信長にとって、領地から得られる収益は私的に蓄財するためのものではなく、優秀な兵を雇い軍備を強化して主君に還元するための「投資原資」でした。
信盛が金銭を惜しんで軍備増強を怠ったことは、信長にとって業務上横領に等しい背信行為だったのです。

折檻状の末尾で信長は、「敵を討って名誉を挽回するか、高野山へ隠居するか」という二者択一を迫りました。
実質的な追放命令でした。

5. 追放とその歴史的意義

信盛・信栄父子は髪を剃り、高野山へと向かいました。
追放後の生活は困窮を極め、最終的に信盛は紀伊国の山間部を流浪することになります。
1582年1月16日、信盛は熊野または十津川で病没しました。
享年55。信長が本能寺の変で倒れるわずか5ヶ月前のことでした。

この追放劇は、織田政権における組織改革の象徴的な事件でした。
信長は「古くから仕えている」という事実をもはや免罪符とせず、現在の職務で成果を出せない者は地位を剥奪するという明確なメッセージを全家臣団に示したのです。

佐久間信盛の追放は、織田家が血縁や年功序列を重んじる中世的な組織から、成果に基づく能力主義の近世的な軍事官僚制へと完全に移行したことを物語っています。
この事件により、他の重臣たちも安泰ではないという危機感を抱き、一層の軍事活動に励むことになりました。

6. まとめ

佐久間信盛は、軍事的には堅実な撤退戦を指揮し、外交的には調整能力を持ち、文化的にも洗練された典型的な「中世の武将」でした。
彼の悲劇は、仕えた主君が中世的な価値観を破壊し、近代的な軍事合理性を極限まで追求した織田信長であった点にあります。

19ヶ条の折檻状は、単なる懲罰文書ではなく、織田政権が到達した「軍事企業体」としての完成度を示す宣言書でした。
信盛の停滞、茶の湯への逃避、そして追放は、織田家が天下統一へ向けて組織を純化させていく過程で必然的に生じた「旧弊の排除」プロセスだったのです。

信盛は「退き佐久間」の名のとおり時代の表舞台から退場しましたが、その追放劇こそが、豊臣秀吉ら次世代の武将たちが活躍する舞台を整えるための不可欠な儀式だったといえるでしょう。


参考文献

  • 一次史料『信長公記』太田牛一著、桑田忠親校注、新人物往来社、1997年
  • 一次史料『多聞院日記』興福寺塔頭多聞院英俊
  • 二次史料『増訂 織田信長文書の研究(上・下・補遺索引)』奥野高広、吉川弘文館、1988年
  • 学術書”The Chronicle of Lord Nobunaga” J.S.A. Elisonas & J.P. Lamers訳注、Brill、2011年
  • 学術書”Japonius Tyrannus: The Japanese Warlord Oda Nobunaga Reconsidered” Jeroen Pieter Lamers、Hotei Publishing、2000年
  • 論文”Exposing the Negligent Vassal in the Condemnations of Sakuma Nobumori and Nobuhide by Oda Nobunaga” Svyatoslav A. Polkhov、2022年
  • 公的資料『国史大辞典「佐久間信盛」項目』吉川弘文館、1979-1997年
  • 公的資料『寛政重修諸家譜』幕府編纂、1812年
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