九鬼嘉隆とは?鉄甲船で海戦を変えた「戦国最強の水軍大将」九鬼

目次

はじめに

戦国時代の有名武将といえば、信長・秀吉・家康や、戦場で活躍した陸上の武将たちが思い浮かびます。
しかし海の上で歴史を動かした人物が一人います。

九鬼嘉隆(くきよしたか)。
志摩国(現・三重県)を拠点とした水軍大将で、「鉄甲船」と呼ばれる当時最先端の軍艦を建造し、毛利水軍を撃退して摂津湾(大坂湾)の制海権を奪取した人物です。
1542年に生まれ1600年に亡くなった、波乱に満ちた59年の生涯を追います。

note(ノート)
九鬼嘉隆 | 日本海戦史を変えた男|hiro | ゆる歴史かわら版 はじめに 「大敗した翌日に、何を考えるか」——その問いに答え続けた武将が戦国時代にいました。 九鬼嘉隆(くきよしたか)。 志摩国(現・三重県)出身の水軍大将で、日本...

目次

  1. 九鬼嘉隆とは——出自と志摩追放
  2. 信長に取り立てられた理由——水軍の専門性
  3. 完敗から学んだこと——第一次木津川口の戦い
  4. 鉄甲船とは何か——史実と論争
  5. 第二次木津川口の戦い——逆転の秘密
  6. 鳥羽城——「浮城」と呼ばれた水軍要塞
  7. 朝鮮出兵での苦戦
  8. 関ヶ原と悲劇の最期
  9. まとめ——九鬼嘉隆が残したもの

1. 九鬼嘉隆とは——出自と志摩追放

九鬼嘉隆は1542年(天文11年)、志摩国英虞郡の波切城(現・三重県志摩市大王町)に生まれました。
父は九鬼定隆。
家は熊野水軍を源流とする海上武装勢力で、志摩国内では「志摩十三人衆」と呼ばれる地頭連合の一員に過ぎませんでした。

1560年(永禄3年)、志摩の他の地頭たちが連合して兄・浄隆の城を攻撃。
浄隆は戦中に死去し、嘉隆は幼い甥を連れて逃亡し、流浪の身となりました。

この失地こそが、のちの九鬼嘉隆をつくった原体験でした。


2. 信長に取り立てられた理由——水軍の専門性

1569年(永禄12年)、嘉隆は滝川一益の仲介によって織田信長に仕え始めます。
信長は陸軍は強かったのですが、海上での戦いや輸送には専門の水軍が必要でした。
嘉隆はまさにその「穴」を埋められる人物でした。

北畠氏征伐で海上から大淀城を攻略し功績を挙げた嘉隆は、以後信長の命で志摩一国の統一を任されます。
船上からの鉄砲一斉射撃を使いながら志摩の地頭たちを攻略し、35,000石の大名として認められました。


3. 完敗から学んだこと——第一次木津川口の戦い

信長が大坂の石山本願寺を陸上から包囲していたところ、本願寺に食料を届けようとする毛利水軍が出現しました。
織田軍約300艘が迎え撃ちましたが、毛利水軍は約700〜800艘。
さらに「焙烙火矢(ほうろくひや)」という、陶器に火薬を詰めて投げつける焼夷兵器を使ってきました。

木造船は炎上し、応戦した8名の武将のうち7名が討ち死にという惨敗でした。
毛利水軍は本願寺への補給に成功します。


4. 鉄甲船とは何か——史実と論争

完敗を受け、信長は嘉隆に「焙烙火矢に耐える新型船」の建造を命じました。
1578年(天正6年)、嘉隆は伊勢で大型軍船6隻を完成させます。
これが後世に「鉄甲船」と呼ばれる船です。

実際に堺で船を見たイエズス会の宣教師オルガンチノは「ポルトガルの船に似ている」と報告しました。
大砲3門と多数の大型鉄砲を搭載していたことも記録されています。

ただし「鉄の装甲」があったかどうかについては、今も歴史学者の間で議論が続いています。
「鉄の船」と記しているのは奈良の僧・英俊の日記(多聞院日記)だけで、英俊は実際に船を見ていない伝聞記録です。
信長の記録(信長公記)にも九鬼家の家譜にも、鉄板装甲の記述はありません。
全面鉄装甲説・部分装甲説・無装甲説など複数の説があり、定説はありません。


5. 第二次木津川口の戦い——逆転の秘密

1578年(天正6年)11月6日、毛利水軍約600隻が再び大坂湾に現れました。
前回と同じ焙烙火矢を使った攻撃。
しかし今回は新型の大型船6隻がありました。

嘉隆は敵船をじっと引き寄せ、近距離で大砲・大鉄砲の集中砲火を浴びせました。
4時間の戦闘で毛利水軍は敗走。
信長の記録(信長公記)は「見物の者すべてが九鬼の手柄に感動した」と伝えています。

この戦いで大坂湾の制海権が織田方に移り、石山本願寺は補給を失い、1580年(天正8年)に降伏しました。
ただし毛利側の記録では一方的な敗北ではなかったとする記述もあり、完全勝利の評価には注意が必要です。


6. 鳥羽城——「浮城」と呼ばれた水軍要塞

1594年(文禄3年)頃、嘉隆は三方を海に囲まれた小丘に鳥羽城を築きました。

この城の最大の特徴は、「正門(大手門)が海側」にあること。
普通、城の正門は陸側に向けますが、鳥羽城は逆です。
水門を4か所設けて船が直接出入りできる構造で、まさに海軍の拠点として設計されました。

海側を黒く山側を白く塗ったことから「二色城(錦城)」とも呼ばれ、海に浮かぶように見えることから「鳥羽の浮城」とも称されました。
現在は城山公園として整備され、石垣が残っています(三重県指定史跡)。


7. 朝鮮出兵での苦戦

1592年(文禄元年)、51歳の嘉隆は旗艦「日本丸」を率いて朝鮮出兵に参加しました。
日本丸は全長約33mの巨大な軍船でした。

しかし朝鮮海域での戦いは思うようにいきませんでした。
閑山島海戦では先行した脇坂軍が李舜臣の戦術に誘い込まれ大敗し、嘉隆は安骨浦へ後退。
日本水軍は制海権を確保できず、補給路の確保と輸送船の護衛に追われました。

国内の閉鎖海域で通用した「大型船で接近し、砲撃で圧倒する」戦術は、地の利のない外洋では限界がありました。
嘉隆は帰国後の1597年(慶長2年)に家督を息子・守隆に譲り、隠居しました。


8. 関ヶ原と悲劇の最期

1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで、嘉隆は西軍(石田三成方)、息子の守隆は東軍(徳川家康方)に分かれました。
「どちらが勝っても九鬼家を存続させる戦略」とも言われますが、この意図を示す直接の史料はありません。

西軍が敗れると、嘉隆は答志島(鳥羽の沖合の島)へ逃げました。
守隆は家康に父の助命を必死に嘆願し、赦免を得て急使を答志島へ送りました。

しかし急使が到着するより前に、家臣の豊田五郎右衛門が独断で嘉隆に切腹を促しました。
嘉隆は1600年10月12日、答志島の洞仙庵で自刃。享年59歳でした。

「鳥羽城の見える場所に首を埋めてくれ」という遺言通り、首塚は答志島の山頂に、胴塚は洞仙庵のそばに建てられ、現在も残っています。


9. まとめ——九鬼嘉隆が残したもの

九鬼嘉隆の一生は、失敗から学び、技術で問題を解決した生涯でした。

追放された志摩を取り戻すために信長に仕え、完敗した海戦の翌年に新型艦隊を建造し、城の正門さえ海に向けた。
その姿勢は「現状維持より問題解決」というものでした。

鉄甲船の鉄装甲が本当にあったかどうかは今も不明ですが、当時の最大勢力・毛利水軍を撃退して石山合戦の帰趨を決めた実績は、どんな論争をも超えて残っています。


参考文献

  • 太田牛一『信長公記』尊経閣文庫所蔵本
  • 多聞院英俊『多聞院日記』天正6年条(続群書類従所収)
  • ルイス・フロイス等著『イエズス会日本年報』(オルガンチノ報告含む)
  • 鳥羽市教育委員会「鳥羽城跡」調査報告書・説明板(三重県指定史跡)
  • 小川隆章「文禄・慶長の役における水軍」環太平洋大学研究紀要(2022年)
よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

CAPTCHA



reCaptcha の認証期間が終了しました。ページを再読み込みしてください。

目次