はじめに
白いマントに赤い十字架を身にまとい、戦場で命を賭けた騎士たち。
彼らは単なる戦士ではなく、修道士でもありました。
12世紀に誕生したテンプル騎士団は、祈りと剣を両立させた革新的な組織として、約200年にわたりヨーロッパ史に大きな足跡を残しました。
聖地巡礼者を守る小さなグループとして始まった彼らは、やがて国際的な金融ネットワークを持つ巨大組織へと成長します。
しかし、その富と権力は、最終的に悲劇的な結末を招くことになるのです。
目次
- 巡礼路を守るために:騎士団の誕生
- 教会の正式承認と特権の獲得
- 白マントに赤十字:騎士団のシンボル
- 戦場での活躍と聖地防衛
- 中世の銀行家:革新的な金融システム
- 巨万の富と批判の声
- フィリップ4世による弾圧と解散
- 参考文献
1.巡礼路を守るためにー騎士団の誕生
1119年、フランス出身の騎士ユーグ・ド・パイヤンと8名の仲間たちがエルサレムで新しい組織を結成しました。
当時、聖地への巡礼路は盗賊やイスラム勢力の襲撃で危険に満ちていました。
第1回十字軍によってエルサレムが奪還されたものの、巡礼者を守る体制は十分ではなかったのです。
エルサレム王ボードゥアン2世は、彼らの活動を歓迎し、かつてソロモン神殿があったとされる神殿の丘を本拠地として提供しました。
これが「神殿の騎士団」、すなわち「テンプル騎士団」という名前の由来となります。
創設当初の彼らは極めて貧しく、印章には「一頭の馬にまたがる二人の騎士」が描かれ、謙虚さと貧困を象徴していました。
2.教会の正式承認と特権の獲得
1129年、フランスのトロワで開かれた教会会議で、騎士団は正式に承認されました。
この会議には教皇特使や大司教たちが出席し、有名なシトー会の聖ベルナールも深く関与しています。
ベルナールは「新しい騎士道への賛美」という論文を著し、「戦う修道士」という新しい概念を神学的に正当化しました。
会議では72条からなるラテン語会則が採択され、騎士たちの生活が細かく規定されます。
貧困・貞潔・服従の三つの誓いに加え、質素な生活が義務付けられました。
肉食は週3回のみ、装飾品は禁止、髪は短く刈ることなど、厳しい規律が定められたのです。
さらに重要だったのは、教皇からの特権でした。
1139年、教皇インノケンティウス2世は勅書「オムネ・ダトゥム・オプティムム」を発布し、騎士団に前例のない特権を与えます。
十分の一税の免除、司教や国王からの独立、独自の教会堂の建設権などが認められ、騎士団は教皇直属の「国家内国家」として機能するようになりました。
3.白マントに赤十字:騎士団のシンボル
1147年、教皇エウゲニウス3世は騎士団に白マントへの赤十字の着用を正式に認めました。
白マントは純潔と禁欲を象徴し、貴族出身の正騎士のみに許された特権です。
一方、非貴族出身の従士たちは黒または茶色のマントを着用しました。
赤十字はキリストの血と殉教を象徴し、左胸の心臓の位置に縫い付けられました。
この視覚的な統一性は、ヨーロッパ全域で騎士団を即座に識別できる「ブランド」として機能します。
1170年代には白マントを着た騎士が約300人に達し、彼らの姿は聖地防衛の象徴となっていきました。
4.戦場での活躍と聖地防衛
テンプル騎士団は中世で最も精鋭な戦闘部隊として知られました。
会則では3対1以上の劣勢でない限り撤退を禁じており、戦死率は時に90%に達したといいます。
1177年のモンギザールの戦いでは、わずか500名のテンプル騎士を中核とする部隊が、サラディンの26,000以上の軍勢に大勝利を収めました。
しかし1187年のハッティーンの戦いでは壊滅的な敗北を喫し、捕虜となった騎士たちは全員処刑されています。
この敗北は直接的にエルサレム陥落を招き、第3回十字軍の呼びかけにつながりました。
騎士団はガザ城やシャトー・ペルラン、トルトサなど各地に要塞を築き、聖地防衛の要となります。
しかし1291年、最後の拠点アッコが陥落すると、聖地における騎士団の軍事活動は終焉を迎えました。
5.中世の銀行家:革新的な金融システム
騎士団の活動は軍事だけにとどまりませんでした。
1150年頃から開発された「信用状システム」は、史上初の国際的銀行ネットワークといえるものです。
巡礼者は出発地の騎士団施設に貴重品を預け、暗号化された証書を受け取ります。
聖地で同等の資金を引き出せるこの仕組みは、強盗のリスクを劇的に低減しました。
これは近代的な小切手やトラベラーズチェックの原型といえるでしょう。
騎士団はさらに王侯貴族への融資、預金管理、年金支給、税の徴収代行なども手掛けるようになります。
パリのテンプル要塞はフランス王室の第二の国庫として機能し、13世紀末には60件以上の口座が記録されていました。イングランド王やフランス王も騎士団から巨額の融資を受けており、ヨーロッパ経済における彼らの影響力は絶大でした。
6.巨万の富と批判の声
ヨーロッパ各地から寄進された土地、教会、風車などにより、騎士団の資産は急速に拡大します。
1185年の調査では、イングランドのリンカンシャーだけで約17,500エーカーの土地、20の水車、18の教会を所有していました。
フランス全土では11の管区に42以上のコマンドリー(地方拠点)が存在し、ヨーロッパ全域では900〜1,000の拠点、あるいは全資産を含めると9,000〜11,000の不動産を所有していたとされます。
年間収益は現代換算で約20億ドル相当との試算もあり、「王国を買うのに十分」とまで言われました。
しかし、この富は批判も招きます。
歴史家ウィリアム・オブ・タイアは「彼らは謙遜を忘れ、教会の十分の一税を取り上げるなど、傲慢と貪欲に陥った」と非難しています。
7.フィリップ4世による弾圧と解散
1291年のアッコ陥落により、騎士団は聖地防衛という本来の存在意義を失いました。
一方、フランス王フィリップ4世は度重なる戦争で深刻な財政難に陥っており、騎士団への負債(1286年時点で8トンの銀、約15万リーヴル)が重くのしかかっていました。
1307年10月13日金曜日、フィリップ4世はフランス全土で騎士団員を同時逮捕するという前代未聞の作戦を実行します。
騎士たちは異端、偶像崇拝、同性愛などの罪状で告発され、拷問によって自白を強要されました。
教皇クレメンス5世も王の圧力に屈し、同年11月に逮捕を承認します。
2001年にバチカンで発見された「シノン羊皮紙」によれば、教皇は1308年に騎士団幹部を秘密裏に赦免していました。しかし、世論と王の圧力により、1312年のウィーン公会議で騎士団は正式に解散を宣言されます。
資産はホスピタル騎士団に移譲されましたが、実際にはフィリップ4世が「訴訟費用」名目で巨額を没収しました。
1314年3月18日、最後の総長ジャック・ド・モレーは自白を撤回し、騎士団の清廉潔白を主張します。
彼は即日火刑に処され、炎の中で「我々を不当に断罪した者たちに速やかに災いあれ」と叫んだと伝えられています。奇妙なことに、教皇クレメンス5世は33日後に、フィリップ4世は8か月後に相次いで死去し、「テンプル騎士団の呪い」として後世に語り継がれることになりました。
約200年にわたる騎士団の歴史は、こうして幕を閉じたのです。
彼らが遺した国際金融システムの原型は後世の銀行制度の礎となり、その悲劇的な最期は絶対王政の到来を告げる警鐘となりました。
現代でも、テンプル騎士団は数多くの伝説と陰謀論の対象となり、人々の想像力をかき立て続けています。
8.参考文献
一次資料
- The Original Rule of the Knights Templar(ラテン語会則の英訳), Robert T. Wojtowicz(訳), 1991年
- Omne Datum Optimum(教皇勅書), Pope Innocent II, 1139年3月29日
- Chinon Parchment(シノン羊皮紙), 教皇クレメンス5世の枢機卿委員会, 1308年8月17〜20日
- Vox in excelso(ウィーン公会議解散勅書), Pope Clement V, 1312年3月22日
- 『歴史行程録』, ウィリアム・オブ・タイア, 1170年代
二次資料
- 『The Trial of the Templars』第2版, Malcolm Barber, 2006年, Cambridge University Press
- 『The New Knighthood: A History of the Order of the Temple』, Malcolm Barber, 1994年, Cambridge University Press
- 『The Knights Templar: A New History』, Helen J. Nicholson, 2001年(改訂2021年), The History Press
- 『The Central Convent of Hospitallers and Templars』, Jochen Burgtorf, 2008年, Brill
- 『教会史 第六巻』, フィリップ・シャフ, 1910年
学術論文
- “Philip the Fair, the Trial of the ‘Perfidious Templars’, and the Pontificalization of the French Monarchy”, Julien Théry, Journal of Medieval Religious Cultures 39(2), 2013年

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