はじめに
1669年、北海道全域で突如として蜂起が起こりました。
数百キロメートルにわたる広範囲で、和人に対する同時多発的な攻撃が展開されたのです。
この歴史的事件は「シャクシャインの戦い」と呼ばれ、アイヌ民族が松前藩による経済的搾取に抵抗した最大規模の戦いとして記憶されています。
なぜ長年敵対していた部族同士が手を結んだのか。
なぜ平和的な交易関係が武力衝突へと発展したのか。
そして、この戦いは北海道の歴史にどのような影響を与えたのか。
本記事では、史実に基づいてこの重要な歴史的転換点を詳しく解説します。
目次
- 戦いの背景:交易条件の悪化
- 部族対立から民族的団結へ
- 1669年6月:全道に広がる蜂起
- 国縫の戦い:技術格差が決めた勝敗
- 和睦の罠:シャクシャインの最期
- 戦後の影響と歴史的意義
1. 戦いの背景:交易条件の悪化
松前藩の交易独占
1604年、徳川家康は松前慶広に黒印状を発給し、アイヌとの交易独占権を与えました。
これにより、アイヌは松前藩以外との交易を禁じられ、藩が設定する価格での取引を強制されることになります。
松前藩の公称石高はわずか1万石でしたが、交易による実質収入は7万石相当に達していました。
交換比率の劇的な悪化
1630年頃から、松前藩は「商場知行制」を導入し、蝦夷地を61の商場に区分しました。そ
れまで複数の交易地を選べたアイヌは、指定された商場でのみ取引を強制されるようになります。
さらに深刻だったのが、交換比率の一方的な変更でした。
当初、干鮭100本に対して米2斗(約36リットル)が支払われていましたが、1660年代には7~8升(約12.6~14.4リットル)にまで削減されました。
これは約65~67%もの価値減少を意味します。
『津軽一統志』には「交易の交換比率が当初より半分以下に逓減した」と明記されており、アイヌ首長の証言として「我々には拒否する力がないので従わざるを得ない」との訴えが記録されています。
環境破壊と生活圏の侵害
経済的圧迫に加え、和人による砂金掘りが河川を汚染し、鮭の遡上を妨げました。
特にシベチャリ川は重要な鮭の産卵場でしたが、採掘により水質が悪化します。
借金を残したアイヌは子供を人質に取られ、「押買」と呼ばれる強制購入も横行しました。
2. 部族対立から民族的団結へ
長年続いた部族間の抗争
蝦夷地のアイヌ社会は、メナシクル(東方民族)とシュムクル(西方民族)という大きな集団に分かれ、資源をめぐって長年対立していました。
1648年には大規模戦闘が発生し、1653年にはメナシクルの首長カモクタインがシュムクルの首長オニビシに殺害されます。
その後継者となったのが、シャクシャインでした。
転機となったウタフの死
1668年4月、シャクシャインはオニビシを砂金掘りの小屋で殺害し、20年にわたる部族間戦争を終結させます。
しかし、オニビシの義弟である沙流の首長ウタフが松前藩に武器援助を求めたものの拒否され、帰途に天然痘で急死する事件が発生しました。
日本側史料は明確に「病死」と記録していますが、「松前藩に毒殺された」との風説が蝦夷地全域に広がります。
この「誤報」が、皮肉にも敵対していた部族を団結させる契機となりました。
シャクシャインの檄
シャクシャインはこの機を逃さず、「アイヌ同士で争うのをやめよ。真の敵は我々を搾取する和人である」との檄を発します。
メナシクル、シュムクル、沙流、厚真など19の東蝦夷地部族が同盟を結成し、かつてない規模の対松前藩闘争へと発展していきました。
3. 1669年6月:全道に広がる蜂起
1669年6月21日、シャクシャイン率いるアイヌ同盟軍約2,000人が、東は白糠から西は増毛まで1,000キロメートル以上の広範囲で一斉蜂起を開始しました。
攻撃対象は商場、砂金掘り小屋、鷹待小屋、商船など松前藩の経済拠点でした。
この初期攻撃により、和人273~390人が殺害され、商船19隻が破壊されました。
犠牲者の大部分は商人、鉱夫、鷹匠などの非戦闘員でした。
アイヌ軍は地形を生かしたゲリラ戦術で、初期段階では優位を保ちます。
4. 国縫の戦い:技術格差が決めた勝敗
幕府の介入
事態を重く見た幕府は、旗本松前泰広を派遣し、弘前藩700人、盛岡藩、秋田藩に出兵準備を命じました。
幕府が「蝦夷征伐大将軍」の称号を実質的に行使し、北辺防衛を直接統制したのです。
毒矢と火縄銃の対決
7月下旬から8月にかけて、国縫川(現長万部町)で決戦が発生しました。
アイヌ軍の主力武器は毒矢でした。
トリカブトの根を狐の胆嚢と混ぜて煮詰めた毒液を、竹または骨製の矢尻に塗布します。
短弓はイチイ材製で長さ約4尺でした。
しかし、致命的な弱点がありました。
アイヌの弓は侍の甲冑を貫通できず、足軽の着用する綿入れ半纏さえ貫けなかったのです。
対して松前側は、当初16挺だった鉄砲を、津軽藩・南部藩から借用して最終的に70~200挺まで増強しました。
火縄銃の射程と貫通力は弓矢を圧倒します。
防御陣地に籠もる松前軍に対して、アイヌ軍は有効な攻撃手段を持ちませんでした。
悪天候と増水も攻勢を阻み、この野戦でアイヌ軍の攻勢は頓挫します。
5. 和睦の罠:シャクシャインの最期
軍事的膠着が続く中、松前側は和議を提案しました。
1669年10月、シャクシャインと複数のアイヌ首長がピポク(現新冠町)での和睦の酒宴に招かれます。
しかし、これは罠でした。
酒宴の最中、老侍佐藤権左衛門がシャクシャインを襲撃します。
目撃者の記録によれば、シャクシャインは「権左衛門、俺を騙したな。なんと卑怯な」と大声で叫び、座り込んだ姿勢のまま殺されました。
同時に厚真と沙流でも他のアイヌ首長が暗殺され、指導者を失ったアイヌ軍は崩壊しました。
6. 戦後の影響と歴史的意義
七ヵ条の起請文
1669年から1672年にかけて、松前藩は全アイヌ集団に絶対服従を誓約させる起請文を強制します。
内容は松前藩への絶対服従、他藩との交易禁止、武器所持禁止、そして交換比率は米1俵=干鮭5束(100本)または皮5枚と規定されました。
戦前よりやや改善されましたが、交易の自由は完全に失われます。
支配体制の確立
松前藩は1670年に余市など各地へ進軍し、アイヌの砦と丸木舟を焼却しました。
それまで存在した広域アイヌ首長制は終焉し、小規模な親族集団に分断されます。
60以上の新たな商場が設置され、アイヌは完全に松前藩の経済支配下に組み込まれました。
次の大規模蜂起まで120年を要し(1789年クナシリ・メナシの戦い)、シャクシャインの戦いがアイヌ民族の政治的自律性に与えた打撃の深刻さを物語っています。
歴史的総括
シャクシャインの戦いは、経済的搾取に起因する抵抗運動として位置づけられます。
シャクシャインは部族間の対立を超えて「民族」としての連帯を実現しましたが、火縄銃という軍事技術の格差と、松前藩の謀殺という戦術の前に敗れ去りました。
この戦いは蝦夷地における日本の支配確立の転換点となり、以後アイヌ民族の政治的自律性は事実上消滅します。
17世紀後半の東アジアにおける国家形成と先住民支配という広い文脈で理解される必要がある、重要な歴史的事件なのです。
参考文献
一次史料
- 『渋舎利蝦夷蜂起ニ付出陣書』松前八左衛門泰広(1669-1671年)『北方史史料集成』第4巻所収(海保嶺夫編、1998年、北海道出版企画センター)
- 『津軽一統志』津軽藩編纂(元禄年間1688-1704年)ADEAC弘前市立図書館デジタルアーカイブ
- 『蝦夷蜂起』(七ヵ条の起請文を収録)松前藩幕府報告書(1669-1672年)
二次資料
- Kiyama, Hideaki “Shakushain’s Revolt of 1669: A Study of a War between the Ainu and the Japanese” Bulletin of College of Foreign Studies Vol.1 (1979)
- Walker, Brett L. “The Conquest of Ainu Lands: Ecology and Culture in Japanese Expansion, 1590-1800” University of California Press (2001)
- Dash, Mike “The Octogenarian Who Took on the Shoguns” Smithsonian Magazine (2013)
- 北海道開発局河川環境課『十勝のアイヌ文化と川 – 和人とのかかわり』
- 大阪大学歴史教育研究会『「鎖国」下の日本の歴史展開 : 外との交流の中で』第2章(2017年)

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