はじめに
1596年、土佐の海岸に一隻のスペイン船が漂着しました。
この出来事が、日本のキリスト教史における最も劇的な転換点となります。
翌年2月、長崎の西坂の丘で26人のキリスト教徒が処刑される「日本二十六聖人の殉教」へと直結したこの事件。
従来「航海士の失言が原因」とされてきた通説は、近年の研究で大きく揺らいでいます。
財政難、地震、戦争、そして宗教団体同士の対立—これらが複雑に絡み合った歴史の真相に迫ります。

目次
- 事件の概要:スペイン船の漂着
- 豊臣政権の財政危機
- 積荷没収と「失言」の真相
- 二十六聖人の殉教
- イエズス会とフランシスコ会の対立
- 事件が残したもの
1. 事件の概要:スペイン船の漂着
1596年10月19日、フィリピンのマニラからメキシコのアカプルコへ向かっていたスペインの大型帆船サンフェリペ号が、台風により土佐国(現在の高知県)の浦戸湾沖に漂着しました。
船には233名の乗組員が乗っており、莫大な価値を持つ積荷を運んでいました。
土佐の領主・長宗我部元親は、表向きは船員を救助する一方で、すぐに豊臣秀吉へこの漂着を報告します。
当時の日本には「漂着船の積荷は領主のものとなる」という海事慣習があり、元親はこの巨額の積荷を献上することで、自身の功績にしようと考えていたのです。
2. 豊臣政権の財政危機
なぜ秀吉は外国船の積荷を没収するという強硬手段に出たのでしょうか。
その背景には、政権の深刻な財政難がありました。
1592年から続いていた朝鮮出兵(文禄・慶長の役)は、膨大な戦費を必要としました。
約16万人を動員したこの戦争は、西国の大名たちに重い負担を強いていました。
さらに1596年9月には、畿内を大地震が襲います。
この慶長伏見地震により、秀吉の居城である伏見城の天守が倒壊し、1,000人以上が犠牲となりました。
城の再建には莫大な費用が必要でした。
研究によれば、秀吉の直轄領からの収入は石高222万石と銀約9万枚程度で、戦費と復興費用を賄うには到底足りない状況でした。
そこへ、ガレオン船8〜12隻分の建造費に相当する60万ペソもの積荷が目の前に現れたのです。
3. 積荷没収と「失言」の真相
秀吉は五奉行の一人、増田長盛を現地へ派遣しました。
長盛の任務は表向き調査でしたが、実際には積荷を没収するための法的根拠を固めることにありました。
ここで歴史を決定づける出来事が起こります。長盛が航海長フランシスコ・デ・オランディアを尋問した際、「スペインはなぜこれほど広大な領土を獲得できたのか」と問いかけました。
オランディアは世界地図を広げてスペイン帝国の版図を示し、長盛がさらに「宣教師が先に来るのはそのためか」と誘導すると、肯定するような返答をしてしまいます。
長盛はこれを「スペインは宣教師を先兵として派遣し、現地の信徒を内応させて征服する」という証言として秀吉に報告しました。
この「征服の尖兵」発言が、秀吉を激怒させて禁教政策の強化につながった—というのが従来の説明です。
しかし、近年の研究はこの説明に重大な疑問を投げかけています。
第一に、この発言を裏付ける一次資料が日本側にもスペイン・ポルトガル側にも存在しません。
第二に、サンフェリペ号に乗っていたフランシスコ会修道士フアン・ポブレの証言によれば、積荷没収の決定は航海士の尋問「前」に下されていたとされます。
つまり、秀吉と長盛は最初から積荷を没収するつもりで、航海士の発言はその正当化のために利用された可能性が高いのです。
4. 二十六聖人の殉教
1596年12月8日、秀吉は禁教令を再発布し、京都・大阪に住むフランシスコ会員とキリシタンの逮捕を命じました。
当初のリストには4,000人もの名前がありましたが、石田三成の働きかけで最終的に26人に絞られます。
捕らえられたのは、フランシスコ会員6名(うちスペイン人5名、メキシコ人1名)、イエズス会関係者3名(パウロ三木ら日本人)、そして日本人信徒17名(12〜14歳の少年3名を含む)でした。
1597年2月5日、26人は長崎の西坂で十字架刑に処されます。
京都から長崎まで約1,000キロメートルを約1ヶ月かけて護送され、途中で左耳の一部を切り落とされるという過酷な道のりでした。
これが日本初の大規模なキリスト教徒処刑事件となり、後に「日本二十六聖人の殉教」として知られることになります。
5. イエズス会とフランシスコ会の対立
この事件を複雑にしたもう一つの要因が、カトリック内部の対立でした。
1549年の来日以来、イエズス会はポルトガルの保護下で日本での布教を独占していました。
彼らは日本の文化や支配者に適応する「順応政策」を取り、1587年の伴天連追放令後も目立たないように活動を続けていました。
ところが1593年、スペイン系のフランシスコ会が来日すると状況が一変します。
彼らは追放令を無視して京都や大阪で公然と教会を建設し、わずか1年で信徒を1万人増やしました。
この「無謀な行動」にイエズス会は強い危機感を抱きます。
サンフェリペ号事件後、両教団は激しく非難し合いました。
イエズス会は「航海士の大言壮語とフランシスコ会の公然たる布教が禍を招いた」と主張し、フランシスコ会は「イエズス会がスペイン人を中傷して秀吉に讒言した」と反論しました。
この対立が、秀吉に正確な情報が伝わることを妨げたのです。
6. 事件が残したもの
サンフェリペ号事件は、単なる海難事故ではありませんでした。
豊臣政権の財政難、大地震による復興費用、長期化する朝鮮出兵、カトリック内部の派閥争い、そして文化的な誤解—これらすべてが一点に集中して爆発した歴史的必然だったのです。
秀吉の死後、徳川家康は当初、キリスト教に対して比較的寛容な政策を取りました。
しかし、サンフェリペ号事件と二十六聖人の殉教は、日本人のキリスト教観に深い影響を与えました。
「宣教師は侵略の先兵である」という認識が広まり、やがて江戸幕府による徹底した禁教政策へとつながっていきます。
近年の研究が明らかにしたのは、航海士の「失言」が事件の主因ではなく、政治的・経済的な複合要因こそが真相だったということです。
歴史を学ぶということは、通説を疑い、複数の視点から真実に迫ることでもあります。
この事件は、権力者の意図、経済的利害、宗教的対立が絡み合う中で、どのように歴史が作られていくのかを示す貴重な教訓となっています。
参考文献
- ルイス・フロイス『日本史』(Historia de Iapam)
- Charles R. Boxer『The Christian Century in Japan: 1549-1650』University of California Press, 1951年
- 松田毅一『秀吉の南蛮外交―サン・フェリペ号事件』新人物往来社, 1972年
- George Elison『Deus Destroyed: The Image of Christianity in Early Modern Japan』Harvard University Asia Center, 1973年(1988年再版)
- Reinier H. Hesselink『The Dream of Christian Nagasaki: World Trade and the Clash of Cultures, 1560-1640』McFarland, 2015年
- Birgit Tremml-Werner『Spain, China and Japan in Manila, 1571-1644』Amsterdam University Press, 2015年
- 日本大百科全書「サン・フェリペ号事件」項目(松田毅一・五野井隆史執筆)小学館, 2016年改訂
- Hélène Vu Thanh “The Glorious Martyrdom of the Cross: The Franciscans and the Japanese Persecutions of 1597” Culture & History Digital Journal, Vol.6(1), 2017年
- Johannes Laures, S.J.『The Catholic Church in Japan』1954年
- 牧原成征『慶長三年蔵納目録の解説』東京大学, 2018年

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