サラディン(サラーフ・アッディーン)とは何者か?十字軍を震わせた「寛容の英雄」を徹底解説

目次

はじめに

「敵将なのに、なぜこんなに尊敬されているのか?」

12世紀の十字軍時代、ヨーロッパの騎士たちが最も恐れ、同時に最も敬った人物がいます。
イスラム世界を統一し、悲願のエルサレムを奪還しながら、敗者に対して驚くほど寛大な姿勢を貫いたスルタン——サラディン(サラーフ・アッディーン)です。
現代の映画やゲームにも登場するこの人物は、実際にはどんな人物だったのでしょうか?
史料に基づきながら、その波乱に富んだ生涯をわかりやすく紐解いていきましょう。


目次

  1. サラディンってどんな人? 生い立ちと時代背景
  2. エジプトの実権をつかむまで(1169〜1171年)
  3. イスラム世界をひとつにした12年間(1174〜1186年)
  4. 歴史を変えた大決戦:ハッティンの戦い(1187年)
  5. エルサレム奪還ー「寛容」が生んだ伝説(1187年10月)
  6. 獅子心王リチャードとの対決(1189〜1192年)
  7. サラディンの統治術
  8. 死後に残ったのは47ディルハム銀貨だけ
  9. まとめ:サラディンが現代に教えてくれること

1. サラディンってどんな人? 生い立ちと時代背景

サラディンの正式な名前は、ユースフ・イブン・アイユーブ
アラビア語で「信仰の正しさ」を意味する「サラーフ・アッディーン」という称号で広く知られるようになりました。
1137年ごろ、現在のイラク北部にあるティクリートという町で、クルド人の軍人貴族の家に生まれています。

彼が生きた12世紀後半の中東は、深刻な分裂状態にありました。
エジプトはシーア派(イスマーイール派)のファーティマ朝が支配し、シリアはスンナ派(イスラムの多数派)のザンギー朝が勢力を持つ一方、第1回十字軍(1099年)以来、エルサレムを含む地中海東岸一帯はキリスト教の「十字軍国家」に占領されていました。

こうした「バラバラなイスラム世界」の中に、サラディンは登場します。


2. エジプトの実権をつかむまで(1169〜1171年)

1169年、サラディンの叔父シールクーフがエジプトの最高権力者(宰相)の地位に就きます。
しかしシールクーフは就任わずか2か月ほどで急死してしまいます。
その跡を継いだのが、31歳の若きサラディンでした。

ここが面白いところです。
サラディンはシーア派の国であるファーティマ朝に仕えるスンナ派の武将という、矛盾した立場に置かれます。
しかし彼は既存の制度を急には壊さず、少しずつ内部から権力基盤を固めていきました。

そして1171年9月、ファーティマ朝最後のカリフ(最高指導者)が病死すると、サラディンはひとつの「宣言」を行います。
カイロ中のモスクで、バグダードのアッバース朝カリフの名前を読み上げるよう命じたのです。
これはイスラムの礼拝で「支配者の名前を唱える」行為が、主権の表明を意味するからです。
血を一滴も流さず、シーア派王朝は終焉を迎え、アイユーブ朝が実質的に誕生しました。


3. イスラム世界をひとつにした12年間(1174〜1186年)

次の課題は、バラバラなシリアの諸勢力を統一することでした。
1174年にシリアの有力者ヌールッディーンが亡くなると、後継者はまだ幼い子供。
サラディンはチャンスと見て、わずか700騎の精鋭を率いてダマスクスへ向かいます。

「ヌールッディーンの遺志を継ぎ、聖地を十字軍から取り戻す」——この大義名分を掲げ、サラディンは力による征服より外交・婚姻・限定的な圧力の組み合わせで各都市を傘下に収めていきました。
ヌールッディーンの未亡人と結婚することで正統性を高め、かつての敵将を赦して味方につけることも辞さなかったのです。

この過程では、暗殺集団(ニザール派)との緊張もありました。
1175年と1176年の2度、命を狙われたサラディンは、1176年に暗殺者集団の本拠地マスヤーフ城を包囲します。
しかし陥落には至らず、ハマ総督の叔父の仲介を経て和議を結び撤退。
後に研究者ベルナール・ルイスが分析したように、ゲリラ戦の泥沼を避け、本来の目標である十字軍との戦いに集中するための、きわめて現実的な判断でした。

1183年にアレッポ、1186年にはモスルも傘下に収め、エジプト・シリア・メソポタミアをまたぐ広大な連合帝国が完成します。


4. 歴史を変えた大決戦ーハッティンの戦い(1187年)

統一が完成したサラディンは、いよいよ十字軍との決戦に踏み切ります。
きっかけは、十字軍の武将ライナルドゥスが休戦協定を破ってムスリムの巡礼隊を襲撃したことでした。

1187年7月4日、ハッティンの戦いが始まります。
サラディンはティベリア(ガリラヤ湖畔の都市)を包囲し、十字軍を誘い出す作戦に出ました。
十字軍の軍(約2万人)は水源地を出発してティベリアへ向かいますが、アイユーブ軍の騎馬弓兵による嫌がらせで進軍が遅れ続けます。

そして夜、十字軍はハッティン(火山性の丘陵地帯)で野営を強いられます。
翌朝には完全に包囲されていました。
アイユーブ軍はラクダで水を運んで補給を確保し、さらに乾燥した草木に火を放って煙幕を張ります。
喉の渇きと熱気で消耗した十字軍は、もはや戦える状態ではありませんでした。

エルサレム王ギーは捕虜となり、「真の十字架」(キリスト教の聖遺物)も奪われました。
この戦いで十字軍の主力は事実上壊滅し、エルサレム王国の軍事力はほぼゼロになります。


5. エルサレム奪還ー「寛容」が生んだ伝説(1187年10月)

ハッティンの勝利から3か月後の1187年10月2日、エルサレムが開城します。

注目すべきは、その後の処置です。
1099年に十字軍がエルサレムを征服した際には、住民の大部分が虐殺されました。
サラディンはどう行動したのでしょうか。

身代金の条件は、男性10ディナール・女性5ディナール・子供1ディナール。
支払えない人々約1万5,000人は奴隷とされましたが、サラディンは高齢者を無条件で解放するよう命じました。
弟のアル=アーディルは1,000人分の身代金を自腹で支払い、即座に全員を解放。
守将バリアンは聖ヨハネ騎士団の資金から3万ベザントを工面して約7,000人を一括で解放しました。

キリスト教側の記録者でさえ、「彼は多大な名誉の持ち主であった」と記しています。
1099年の虐殺と対比された「エルサレムの寛容な開城」は、サラディンの名声をキリスト教世界にも広めることになりました。
また、東方のキリスト教徒(コプト正教会など)はそのまま居住を認められ、エルサレム奪還後にはユダヤ人の聖都への再入植を許す布告も出したとされています。


6. 獅子心王リチャードとの対決(1189〜1192年)

エルサレム陥落の知らせはヨーロッパを震撼させ、イングランド王リチャード1世(通称「獅子心王」)ら3人の国王が参加する第3回十字軍が組織されます。

1191年9月のアルスーフの戦いではリチャード率いる十字軍がアイユーブ軍を破り、沿岸都市を回復。
しかし内陸のエルサレムへの進軍は、補給の困難から2度とも断念されました。

この激しい戦いの最中、両軍の指揮官は書簡と贈り物を交わしていました。
リチャードが発熱で倒れた際にはサラディン側から果物が届けられ、ヤッファの戦いではサラディンの弟アル=アーディルがリチャードの馬が負傷した場面で新たな馬を贈ったとバハー・アッ=ディーンは記録しています。

互いを「高潔な敵」として認め合う関係は、現代人から見ても非常に印象的です。
なお、両者が実際に会うことは最後まで一度もありませんでした。

1192年9月、ヤッファ条約(3年間の休戦)が締結されます。
十字軍は沿岸地帯を保持し、エルサレムはイスラム支配が継続。
ただしキリスト教徒の巡礼者は自由に聖地を訪れることができる——双方が消耗しきった末の、現実的な妥協点でした。


7. サラディンの統治術

サラディンが単なる「強い武将」ではなかった理由は、その統治システムにあります。

まず教育面では、各地にマドラサ(イスラムの高等教育機関)を多数建設しました。
これは宗教的な義務だけでなく、国家運営を担う有能な官僚・法学者を育てる人材育成システムでもありました。
マドラサの運営費は、農地や市場からの収益を永続的に充てるワクフ(宗教的寄進財産)制度で賄われており、財政的にも持続可能な仕組みでした。

経済面では、紅海からインド洋にかけての交易ルートを保護・安定化させました。
商人への安全通行の保証と適切な関税制度により、安定した税収を確保し、長期的な遠征の財源としたのです。

人材登用においても注目すべき点があります。
ユダヤ人哲学者・医師のマイモニデスが宮廷の侍医を務めたとされていますが、史料上は最高宰相カーディー・アル=ファーディルの侍医であったことは確実で、サラディン本人の侍医であったかについては史料間で見解が分かれています。
ただし、宗教や民族を問わず能力のある人材を重用しようとしたサラディンの姿勢は、複数の記録から裏付けられています。


8. 死後に残ったのは47ディルハム銀貨だけ

1193年3月4日、サラディンはダマスクスでその生涯を閉じました。
推定55〜56歳でした。

側近のバハー・アッ=ディーン・イブン・シャッダードの記録によると、サラディンの死後、国庫に残っていたのは「ティルス産の金の延べ棒1本と47ディルハム銀貨」のみでした。
広大な帝国を築いた指導者の遺産として、葬儀費用にすら足りない額です。

在位中に得た富の大部分は、軍の維持・城塞の建設・慈善事業・部下への恩賞に使い果たされていました。
ブリタニカ百科事典も「イスラム世界で最も強力かつ寛大な支配者が、自らの墓代にも事欠く財産しか残さなかった」と記しています。


9. まとめーサラディンが現代に教えてくれること

サラディンの生涯は、軍事的な天才と外交的な知恵、そして宗教的な原則と現実的な判断力が複雑に絡み合うものでした。
敵であるキリスト教世界でも彼の徳が称えられ、ダンテの『神曲』では地獄の辺境(リンボ)に「徳の高い異教徒」として配置されています。

歴史を振り返ると、サラディンが示した「寛容さ」は無条件のものではなく、状況に応じた戦略的判断でもありました。
しかし、1099年の第1回十字軍による虐殺と1187年のエルサレム開城を対比したとき、その差が歴史を通じて語り継がれてきたことは確かです。

「正しい目的のために、どんな手段を選ぶか」「敵をどう扱うか」という問いは、歴史の教科書を超えた普遍的なテーマではないでしょうか。
サラディンという人物は、そのひとつの「答え」を体現した存在として、800年以上の時を超えて私たちに語りかけてきます。


参考文献

  1. Bahā’ al-Dīn ibn Shaddād, Al-Nawādir al-Sultaniyya wa’l-Maḥāsin al-Yūsufiyya (英訳:D.S. Richards, Ashgate/Routledge, 2001)
  2. Ibn al-Athīr, Al-Kāmil fī al-Tārīkh(完全年代記)(英訳:D.S. Richards, Ashgate, 2006–2008)
  3. ʻImād al-Dīn al-Iṣfahānī, Al-Fath al-Qussī fī al-Fath al-Qudsī(エルサレム征服記)
  4. Lyons, M.C. and Jackson, D.E.P., Saladin: The Politics of the Holy War, Cambridge University Press, 1982
  5. Lewis, Bernard, “Saladin and the Assassins,” Bulletin of the School of Oriental and African Studies, Vol. 15, Cambridge University Press, 1953
  6. Eddé, Anne-Marie, Saladin (英訳:Jane Marie Todd, Harvard University Press, 2011)
  7. Encyclopaedia Britannica, “Saladin” (Walker, P.E., 2026年2月更新版)
  8. World History Encyclopedia, “Saladin” (2018/2019)
  9. Frenkel, Y., “Political and Social Aspects of Islamic Religious Endowments (awqāf),” Bulletin of SOAS, 1999 (DOI: 10.1017/S0041977X00017535)
  10. Bora, Fozia, “Did Ṣalāḥ al-Dīn Destroy the Fatimids’ Books?” (2016)
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