アショーカ王 | 暴君から慈悲の王への劇的な変貌

目次

はじめに

古代インドに、戦争の惨禍を目の当たりにして人生を180度転換した王がいました。
彼の名はアショーカ王。
紀元前3世紀、広大なマウリヤ朝を治めたこの王は、「残酷なアショーカ」から「法の守護者アショーカ」へと変貌を遂げ、世界初といえる動物保護法を制定し、宗教間の調和を説き、石に刻まれた勅令を通じて民衆に語りかけました。
現代インドの国章にも採用されている獅子柱頭は、彼の理想が今も生き続けていることを示しています。
この記事では、アショーカ王の生涯と彼が実践した「ダルマ(法)」による統治について、わかりやすくご紹介します。

note(ノート)
アショーカ王 | 暴君から聖王への劇的な転換と「法」による統治|hiro | ゆる歴史かわら版 はじめに 紀元前3世紀のインド亜大陸。 一人の残酷な王が、戦争の惨禍を目の当たりにして深く悔い改め、武力ではなく「法(ダルマ)」によって巨大帝国を統治しようと決意し...

目次

  1. マウリヤ朝とアショーカ王の即位
  2. カリンガ戦争ー人生を変えた悲劇
  3. 「ダルマ」による新しい統治の始まり
  4. ダルマ大官ー画期的な監察制度
  5. 石に刻まれたメッセージー古代のマスメディア
  6. 世界最古級の動物保護法
  7. 宗教的寛容と多文化共生
  8. アショーカ王の遺産
  9. まとめ

1. マウリヤ朝とアショーカ王の即位

紀元前4世紀末、チャンドラグプタがインド史上初の大統一帝国マウリヤ朝を建国しました。
その孫にあたるアショーカは、紀元前268年頃に第3代王として即位します。

即位までの経緯については、仏教文献に「チャンダ・アショーカ(残酷なアショーカ)」として、99人もの兄弟を殺害したという伝説が残されています。
しかし、この話は後世の仏教徒が改宗の劇的効果を高めるために誇張した可能性が高いとされます。
実際、アショーカ自身の勅令には、兄弟や姉妹の家族の福祉について言及があり、少なくとも一部の親族は生存していたと考えられるのです。

2. カリンガ戦争ー人生を変えた悲劇

アショーカ王の人生を変えた決定的な出来事が、即位8年目(紀元前261年頃)に起きたカリンガ戦争でした。
東海岸の独立国カリンガ(現在のオリッサ州)を征服するため、アショーカは大規模な軍事侵攻を行います。

戦争は勝利に終わりましたが、その代償はあまりにも大きいものでした。
アショーカ自身が石に刻ませた第13号磨崖勅令には、戦争の凄惨な結果が記録されています。
死者10万人、捕虜15万人、そしてその数倍が飢餓や疫病で命を落としたのです。

勝利の絶頂にあるはずの時期に、アショーカは深い悔恨の念に襲われました。
そして「いかなる勝利よりも法(ダルマ)による勝利が最も優れている」と宣言し、武力による征服を永久に放棄したのです。

3. 「ダルマ」による新しい統治の始まり

アショーカが提唱した「ダルマ(法)」とは、特定の宗教の教義ではなく、誰もが共有できる普遍的な倫理のことです。
当時のインドには、バラモン教、仏教、ジャイナ教、アージーヴィカ教など、さまざまな宗教が存在していました。
アショーカは、これらすべての宗教を尊重しながら、帝国全体を統合する共通の価値観としてダルマを掲げたのです。

ダルマの具体的な内容は以下のようなものでした。

  • 父母への敬意と従順
  • 友人や親族への寛容と誠実さ
  • 弱者(奴隷や召使い)への慈悲
  • 不殺生(生き物を殺さない)
  • 正直さと清らかな心

アショーカは「武力による征服」を「法による征服」に置き換え、近隣諸国に対しても、恐怖ではなく信頼と倫理によって接することを約束しました。

4. ダルマ大官ー画期的な監察制度

理想を現実のものとするため、アショーカは即位13年目に「ダルマ・マハーマートラ(ダルマ大官)」という新しい役職を創設しました。
これは、既存の行政機構から独立した監察官のような存在です。

ダルマ大官の主な任務は次の通りでした。

  • すべての宗派間の調和を促進し、対立を防ぐ
  • 不当に投獄された人々を解放し、刑罰が適正かを監視する
  • 貧困者、高齢者、孤児などを支援する
  • 地方官の不正や暴政を監視する
  • 王族の家庭においてもダルマが守られているかを確認する

アショーカは「食事中であろうと、どこにいようとも、民衆のことを報告せよ」と命じ、情報の透明性を確保しようとしました。
この制度は、権力の腐敗を防ぎ、公正な統治を実現するための画期的な仕組みだったのです。

5. 石に刻まれたメッセージー古代のマスメディア

識字率の低い広大な帝国で、どうやって王の考えを民衆に伝えるか。
アショーカが採用したのは、主要街道や国境、聖地に石柱や磨崖碑を建て、そこに勅令を刻むという方法でした。

これらの碑文は、単なる掲示物ではありません。
地方の役人が定期的に集会や祭りの際に碑文を読み上げ、文字が読めない人々にも王のメッセージを届けたのです。
まさに古代のマスメディアといえるでしょう。

さらに注目すべきは、地域に応じて言語や文字を使い分けていたことです。
インド東部や南部ではブラーフミー文字によるプラークリット語、北西部ではカローシュティー文字、西端のカンダハールではギリシア語とアラム語の二言語碑文が用いられました。
これは現地の文化を尊重しながら、メッセージを確実に届けようとする高度な情報戦略だったのです。

6. 世界最古級の動物保護法

アショーカの慈悲は人間だけでなく、すべての生き物に向けられました。
即位26年目の第5号石柱勅令には、詳細な動物保護規定が刻まれています。

保護の対象となったのは、オウム、コウモリ、カメ、リス、サイなど多種多様な動物たちです。
妊娠中や授乳中の動物、生後6ヶ月未満の幼獣の殺害も禁止されました。
さらに、無益な森林火災の防止、特定の祝日における魚の捕獲禁止、家畜の去勢禁止なども定められました。

王室の厨房でも変革が行われ、それまで毎日数千頭だった動物の殺生が、孔雀2羽と鹿1頭のみに削減されました。
(※第1号磨崖勅令)
そして将来的にはこれもゼロにすると宣言したのです。

7. 宗教的寛容と多文化共生

アショーカは仏教徒でしたが、国家の公式な立場としては特定の宗教に偏ることを厳に慎みました。
第12号磨崖勅令では「自分の宗派を過度に称賛し、他者を貶めてはならない。それは結局、自分の宗派を傷つけることになる」と説いています。

実際の行動もこれを裏付けています。
アショーカは仏教とは思想的に対立するアージーヴィカ教の修行者のために、精巧に磨かれた洞窟寺院を寄進しました。
ダルマ大官は各宗派を平等に支援し、宗派間の対話を促進したのです。

8. アショーカ王の遺産

アショーカは紀元前232年頃に亡くなり、その後マウリヤ朝は衰退していきました。
しかし、彼が残した理念と石柱は、2000年以上の時を超えて現代に受け継がれています。

特に有名なのが、サールナートの獅子柱頭です。
4頭のライオンが背中合わせに立ち、その足元には法輪(ダルマ・チャクラ)が刻まれたこのデザインは、1950年にインド共和国の国章として採用されました。
また、国旗の中央にも24本の輻を持つアショーカ・チャクラが配置されています。

これは、アショーカが掲げた「多様性の中の統一」と「法の支配」という理想が、現代の民主主義国家においても普遍的な価値を持つことを示しているのです。

9. まとめ

アショーカ王の物語は、一人の人間が過ちに気づき、人生を根本から変えることができるという希望を私たちに与えてくれます。
彼は戦争の悲劇を経験したからこそ、平和の尊さを理解し、慈悲と倫理に基づく統治を実践しました。

動物保護法、宗教的寛容、独立した監察制度、情報の透明性──アショーカが2300年前に実践したこれらの理念は、現代社会にも通じる先進的なものでした。
石に刻まれた彼のメッセージは、今も私たちに語りかけています。

「力ではなく、法によって統治せよ。すべての生命を尊重せよ。異なる信念を持つ人々と共存せよ」──この普遍的な教えこそが、アショーカ王が後世に残した最大の遺産なのです。


参考文献

  1. E. Hultzsch, “Inscriptions of Asoka” (1925)
  2. Romila Thapar, “Asoka and the Decline of the Mauryas” (2012)
  3. Ven. S. Dhammika, “The Edicts of King Ashoka” (1993)
  4. 塚本啓祥『アショーカ王碑文』第三文明社(1976)
  5. 山崎元一『アショーカ王伝説の研究』春秋社(1979)
  6. UNESCO “Serial nomination for Ashokan Edict sites along the Mauryan Routes” (2014)
  7. D.C. Sircar, “Inscriptions of Asoka” (1956)
  8. K.R.ノーマン「アショーカと仏教」『パーリ学仏教文化学』10巻(1997)
  9. 中村元『古代インド』講談社学術文庫(2004)
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