はじめに
52回もの合戦を戦い抜き、「鬼島津」と恐れられた戦国武将・島津義弘。
わずか300人で3,000人の敵軍を撃破した木崎原の戦い、敵中を突破して生還した関ヶ原の「退き口」など、その戦いぶりは今も語り継がれています。
しかし義弘の真の偉大さは、革新的な戦術だけでなく、敵味方を問わず戦死者を供養する慈悲の心、そして若者教育への情熱にありました。
本記事では、戦国時代を生き抜いた義弘の生涯と、その精神が後の薩摩藩、さらには明治維新へとつながっていく物語をご紹介します。

目次
- 島津四兄弟の固い結束
- 木崎原の戦い─「釣り野伏せ」の完成
- 泗川の戦い─鉄砲と大砲による圧勝
- 関ヶ原の戦い─伝説の「島津の退き口」
- 敗戦から本領安堵へ─外交の勝利
- 戦死者供養と郷中教育への影響
- おわりに
- 参考文献
1. 島津四兄弟の固い結束
1535年、薩摩国に島津貴久の次男として生まれた義弘。
祖父・島津忠良は四兄弟をこう評しました。
長男・義久は「三州の総大将の資質」、次男・義弘は「雄武英略」、三男・歳久は「智謀」、四男・家久は「軍法戦術の妙」を持つと。
この評価通り、兄弟たちは明確に役割を分担しました。
義久が政治判断と全体指揮を担い、義弘が実戦指揮と対外交渉を務め、歳久が参謀として情報収集を行い、家久が「釣り野伏せ」の実戦を執行したのです。
豊臣秀吉は島津家を弱体化させるため、義弘に新恩地を与えるなど兄弟の離間を図りました。
しかし四兄弟の結束は固く、秀吉の策略は失敗に終わります。
この強固な協力体制こそが、島津氏の強さの源泉でした。
2. 木崎原の戦い─「釣り野伏せ」の完成
1572年5月4日、義弘は約300人の兵で伊東軍約3,000人と対峙しました。
10倍もの兵力差がある絶望的な状況です。
ここで義弘が用いたのが「釣り野伏せ」という独自の戦術でした。
まず囮部隊が敗走を装って敵を誘い込みます。
敵が深く追撃してきたところで、左右に潜ませていた伏兵が一斉に襲いかかり、三方から包囲するという戦法です。
戦いは激烈を極めました。
伊東軍は武将128人を含む多数の戦死者を出し、総大将・伊東祐安も討ち取られます。
しかし島津軍も参加兵力の約85%が戦死するという壮絶な勝利でした。
この戦いは「九州の桶狭間」とも称されています。
戦後、義弘は激戦地に六地蔵塔を建立し、敵味方双方の戦死者を供養しました。
この行為は義弘の人間性を示すものとして、後世に語り継がれています。
3. 泗川の戦い─鉄砲と大砲による圧勝
1598年10月1日、朝鮮半島の泗川で義弘は約7,000人の兵を率いて、明・朝鮮連合軍の大軍と対峙しました。
島津軍の強さの秘密は、早くから鉄砲を実戦に取り入れていたことにあります。
1543年の種子島への鉄砲伝来直後から、島津氏は火器の威力に着目していました。
義弘は単に鉄砲を導入しただけでなく、伏兵戦術と組み合わせて独自の戦法を確立したのです。
泗川の戦いでは、敵を城外へ誘い込んで至近距離まで引きつけ、鉄砲と大砲を一斉射撃しました。
さらに鉄くずや釘を砲弾として使用し、散弾効果で敵軍を混乱させます。
そして城門を開いて打って出ることで、圧倒的な勝利を収めました。
この戦功により、島津軍は「鬼石曼子(グイシーマンズ)」と恐れられるようになります。
4. 関ヶ原の戦い─伝説の「島津の退き口」
1600年9月15日、関ヶ原の戦いで西軍に属した義弘は、約1,500人の兵を率いていました。
しかし午後2時頃、小早川秀秋の寝返りにより西軍は総崩れとなります。
退路を断たれた義弘は驚くべき決断を下しました。
後方の山へ逃げるのではなく、前方の徳川家康本陣方向へ突破するという前代未聞の退却ルートを選んだのです。
この退却戦で用いられたのが「捨て奸」という凄惨な戦術でした。
2〜3人または5〜7人の小部隊が鉄砲を持って退却路に残り、追撃してくる敵の大将を狙撃して足止めします。
彼らは時間を稼いだ後、全滅することを前提としていました。
甥の島津豊久は烏頭坂で殿軍を務めて戦死し、家老の長寿院盛淳は義弘の陣羽織を着て影武者となり、「我こそは島津兵庫入道義弘なるぞ」と名乗って討ち死にしました。
約1,500人で出発した義弘隊は、わずか80数名が生還するという壮絶な撤退戦でした。
5. 敗戦から本領安堵へ─外交の勝利
関ヶ原後、徳川家康は島津討伐を計画します。
しかし島津家には秘策がありました。
兄・義久は「義弘の西軍参加は個人行動であり、当主は関知していない」と主張しました。
同時に、国境の防備を固めて徹底抗戦の構えを見せます。
島津家には1万を超える兵力が温存されており、攻め込めば長期戦になることは明らかでした。
井伊直政や福島正則らの仲介もあり、1602年12月、義弘の子・忠恒が家康と面会して講和が成立します。
驚くべきことに、島津家は薩摩・大隅2か国と日向諸県郡の本領を安堵されました。
西軍に属しながら領地削減を免れたのは、島津家だけです。
この外交的勝利は、「武備恭順」─軍事態勢を維持しつつ恭順の意を示す─という戦略の成功でした。
6. 戦死者供養と郷中教育への影響
1599年6月、義弘は高野山奥之院に朝鮮出兵の敵味方の犠牲者を供養する塔を建立しました。
碑文には「大明人八万餘兵撃亡」「味方士卒三千餘人」と刻まれています。
戦場では冷徹な指揮官であった義弘ですが、戦死者への慈悲は深いものがありました。
朝鮮出兵では凍死者が続出する中、島津隊のみ凍死者がゼロでした。
義弘が身分の上下に関わらず全員で囲炉裏で暖をとり、夜も3回陣中を巡って火の不足を確認したからです。
1607年以降、義弘は加治木館に隠居し若者教育に注力しました。
祖父・忠良が作った「日新公いろは歌」47首を教育の軸とし、その精神は後の「郷中教育」へと発展していきます。
この独自の教育システムから、西郷隆盛や大久保利通など、明治維新を担う人材が輩出されることになるのです。
おわりに
島津義弘は1619年7月21日、85歳で加治木にて死去しました。
殉死禁止令下にもかかわらず13名が殉死したことは、義弘への家臣の忠誠を物語っています。
革新的な戦術、不屈の精神、そして敵味方を問わぬ慈悲の心。
義弘が体現したこれらの精神は、薩摩藩の基盤となり、数百年後の明治維新へとつながっていきました。
「鬼島津」と恐れられた武将の真の偉大さは、戦場での武功だけでなく、その生き様そのものにあったのです。
参考文献
- 桐野作人『関ヶ原 島津退き口:敵中突破三〇〇里』学研パブリッシング、2010/2013年
- 新名一仁『「不屈の両殿」島津義久・義弘』角川新書、2021年
- 東京大学史料編纂所『大日本古文書 家わけ第十六 島津家文書之五』東京大学出版会
- えびの市公式サイト「木崎原古戦場跡」https://www.city.ebino.lg.jp/
- 鹿児島県観光連盟『島津義弘公の戦い』2019年
- 尚古集成館「家久、徳川家康と和睦し領地を安堵される」https://www.shuseikan.jp/timeline/iehisa-ieyasu/
- PHP研究所『島津義久~九州制覇を目指した島津四兄弟の長男』2018年
- Kenneth M. Swope, “A Dragon’s Head and a Serpent’s Tail”, University of Oklahoma Press, 2009

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