「槍の半蔵」渡辺守綱 | 信仰と忠誠の狭間で生きた徳川の名将

目次

はじめに

戦国時代、徳川家康を支えた家臣団の中に「半蔵」という通称を持つ二人の傑物がいました。
一人は忍者の代名詞となった「鬼半蔵」服部正成。
そしてもう一人が、本記事で紹介する「槍半蔵」渡辺守綱です。
家康と同じ年に生まれ、79年の生涯を通じて徳川家に仕え続けた守綱。
しかし、その人生は決して順風満帆ではありませんでした。
若き日には信仰のために主君に弓を引き、それでも許されて再び仕え、最前線で槍を振るい続けた武人。
晩年には治水事業で領民を守り、若き尾張藩主の後見人として藩政を支えた統治者。
守綱の生涯は、戦国から江戸への転換期を生きた一人の武士の、人間臭い苦悩と成長の物語です。

note(ノート)
渡辺守綱 | 槍一筋に生きた「槍半蔵」が貫いた忠義の生涯|hiro | ゆる歴史かわら版 はじめに 徳川家康の家臣団には、二人の「半蔵」がいました。 一人は忍者として名高い「鬼半蔵」こと服部正成。 そしてもう一人が、槍の名手として知られる「槍半蔵」こと...

目次

  1. 渡辺守綱とは何者か
  2. 「槍半蔵」誕生ー戦場での活躍
  3. 信仰か忠誠かー三河一向一揆の試練
  4. 帰参後の戦歴ー槍一本での信頼回復
  5. 関ヶ原から尾張藩付家老へ
  6. 武人から統治者へー百人堤の築造
  7. 守綱が遺したもの

1. 渡辺守綱とは何者か

渡辺守綱は天文11年(1542年)、三河国の武士・渡辺高綱の嫡男として生まれました。
この年は徳川家康の生年と同じであり、この「同い年」という縁が、後の長い主従関係の基盤となります。

渡辺家は平安時代の伝説的武将・渡辺綱の末裔を称する名門で、代々松平(後の徳川)家に仕える譜代の家臣でした。守綱が生まれた時代の三河は、西の織田氏と東の今川氏という二大勢力に挟まれ、松平家は常に存亡の危機にさらされていました。
こうした厳しい環境が、守綱のような若き武士たちに実力第一の精神を育んだのです。

2. 「槍半蔵」誕生ー戦場での活躍

弘治3年(1557年)、16歳の守綱は今川氏の人質として駿府にいた松平元康(後の家康)に仕え始めます。
初陣については史料により年代に若干の相違がありますが、1558年から1561年頃にかけて、石ヶ瀬の戦いや長沢城攻めで初めて戦場に立ち、敵将を討ち取る武功を挙げました。

守綱の名を一躍高めたのが、永禄5年(1562年)の三河八幡の戦いです。
今川方の攻撃を受けて徳川軍が敗走する中、守綱は最も危険な「殿(しんがり)」を志願しました。
殿とは撤退する味方の最後尾に立ち、追撃してくる敵を食い止める役目で、最も死亡率が高い任務です。
守綱は槍一本で追撃軍を三度にわたって撃退し、多くの味方を救いました。

この奮戦を見た家康は、守綱に「槍半蔵」という異名を与えます。
同じく「半蔵」の通称を持つ服部正成が諜報や警護を担当する「鬼半蔵」と呼ばれたのに対し、守綱は槍術の達人として「槍半蔵」と称されました。
両者は徳川軍団の「表と裏」、「武力と知略」を象徴する存在として、後世まで並び称されることになります。

3. 信仰か忠誠か ー 三河一向一揆の試練

しかし守綱の人生最大の試練が、永禄6年から7年(1563-1564年)にかけて起こります。
三河一向一揆の勃発です。

一向一揆とは、浄土真宗(一向宗)の信徒たちが起こした武装蜂起です。
家康が三河統一を進める中で寺社勢力の特権を制限しようとしたことが、熱心な門徒たちの反発を招きました。
「進めば往生極楽、退けば無間地獄」というスローガンのもと、信徒たちは命をかけて戦ったのです。

渡辺家は代々熱心な一向宗の門徒でした。
守綱は「主君への忠義か、信仰か」という究極の選択を迫られます。
苦悩の末、彼は信仰を選び、父・高綱とともに勝鬘寺に籠城して主君に反旗を翻しました。
しかし、戦いの中で父・高綱は徳川方の矢に当たり戦死。
守綱は負傷した父を寺まで運びましたが、その夜、高綱は息を引き取りました。

永禄7年(1564年)、一揆は鎮圧されます。
多くの門徒侍が追放される中、守綱は例外的に帰参を許されました。
これは八幡の戦いでの殿軍としての功績や、負傷した仲間を救出するなど義理堅い人柄が家康に評価されたためとされています。
しかし、一度主君を裏切ったという事実は消えません。
以降の守綱の生涯は、この「負い目」を払拭するための、戦場での圧倒的な働きによる信頼回復の歴史でもありました。

4. 帰参後の戦歴 ー 槍一本での信頼回復

帰参後、守綱は徳川軍の主要な戦役のほぼすべてに参加します。

元亀元年(1570年)の姉川の戦いでは、織田・徳川連合軍の一員として浅井・朝倉軍と激突し、旗本一番槍の戦功を挙げました。
元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いは、徳川軍が武田信玄に大敗を喫した戦いですが、守綱は旗本足軽頭として先鋒を務め、敗走の中でも冷静に行動しました。
家康が浜松城へ逃げ帰る際、守綱は再び殿を務め、武田軍の大将格を討ち取る活躍を見せます。
この功により100貫文の加増を受けました。

天正3年(1575年)の長篠の戦いでは、武田軍の軍師として知られる山本勘助の嫡子・山本菅助を討ち取るという大功を挙げています。
天正10年(1582年)、本能寺の変後に家康が堺から岡崎へ脱出した「伊賀越え」では、わずか数十名の供回りの一人として家康を護衛しました。

注目すべきは、守綱が50歳近くになっても大名ではなく、3,000石の旗本、役職としては「足軽頭(組頭)」という現場指揮官の立場にあったことです。
これは家康が、守綱を後方で軍政を司る大名にするよりも、最前線で精鋭部隊を率いて敵を破る「切り込み隊長」として使う方が、軍事的に合理的だと判断したためと考えられます。

5. 関ヶ原から尾張藩付家老へ

慶長5年(1600年)、守綱は59歳にして関ヶ原の戦いに参戦します。
当時は隠居してもおかしくない年齢ですが、彼は足軽100人を率いる組頭として、家康本陣に控えました。
戦前、大坂城西の丸で諸大名が集められた際、家康は守綱を呼び出し、「お前は私と同じ年齢で、長年忠義を尽くし、戦功を挙げてくれた」と述べ、南蛮胴具足(西洋式甲冑)を贈りました。
戦後は1,000石を加増され、合計4,000石となります。

そして慶長13年(1608年)、66歳の守綱に大きな転機が訪れます。
家康の直命により、九男・徳川義直(尾張藩主)の付家老に任命されたのです。
付家老とは、幕府から親藩大名に派遣される特殊な家老職で、藩政の監督と若き藩主の教育を任される重責です。

家康は守綱に「まだ幼い義直はあらゆることに指南が必要だから、そばで補佐してほしい」「尾張は西国・上方への抑えとして大切な場所だから、いざとなれば関東の先陣となって指揮を取ってほしい」と述べ、尾張国岩作5,000石と三河国寺部5,000石を与えました。
これにより守綱の知行高は計14,000石となり、事実上の大名格となりました。

一向一揆での離反から始まった関係が、半世紀を経て、家康が最も信頼する「息子の後見人」という地位へと昇華されたのです。

6. 武人から統治者へ ー 百人堤の築造

慶長19年から20年(1614-1615年)の大坂の陣では、守綱は73-74歳の高齢でありながら、義直の初陣を後見する重責を担いました。
家康から「守綱は義直のかたわらにおれ。先陣は重綱(息子)に任せよ」と特命があり、若き藩主を守り抜きました。

元和2年(1616年)以降、守綱は三河国寺部に居を構え、領主としての務めに専念します。
ここで特筆すべきは、彼の民政家としての側面です。

慶長14年(1609年)頃、矢作川の大水害により寺部村付近で川の流路が変わり、多くの耕地が失われました。
守綱は荒れた河原を何度も視察して築堤を決断し、預けられていた足軽100人を動員して延長約280間(約500メートル)の堤防を完成させました。人々はこの堤防を足軽100人の働きにちなんで「百人堤」と呼びました。

かつて一向一揆で領主権力に反抗した経験を持つ守綱は、民衆の力と恐ろしさ、そして生活の安定がいかに重要かを、身をもって理解していたはずです。
武力による統治だけでなく、インフラ整備を通じて人々の生活を安定させる姿勢は、彼が単なる「武人」から成熟した「統治者」へと成長していたことを示しています。

7. 守綱が遺したもの

元和6年(1620年)4月9日、守綱は名古屋において79年の生涯を閉じました。
墓所は愛知県豊田市寺部町の守綱寺で、同寺は守綱の孫・治綱が創建したものです。

守綱の死後、渡辺半蔵家は尾張藩の重臣として明治維新まで存続しました。
本家は「万石以上」の家格を維持し、代々軍事担当の家老を務め、明治17年(1884年)には男爵に叙されています。
また守綱の孫・渡辺吉綱を祖とする分家は、13,520石の大名となり、和泉国伯太藩を立藩しました。

守綱の生涯は、一度の致命的な失敗(一向一揆)から、いかにして信頼を回復し、組織の最高幹部へと登り詰めるかという「失敗からの再生」のプロセスを鮮明に示しています。
彼は弁解や政治工作に頼ることなく、戦場という最も過酷な「現場」での圧倒的な成果と、長年にわたる一貫した奉仕によってのみ、その贖罪を果たしました。

59歳の関ヶ原でも現場指揮官として戦い、70代で若き主君の盾となり、最後は領民のために堤防を築いた守綱。
その姿は、出世や地位よりも「職能(プロフェッショナリズム)」を全うすることに重きを置いた、極めて実直な三河武士の理想像だったといえるでしょう。

戦国の世を槍一本で生き抜き、平和な時代の基盤を築いた渡辺守綱。彼の物語は、失敗を恐れず、誠実に職務を全うすることの大切さを、今を生きる私たちにも教えてくれます。

参考文献

[1] 『寛政重修諸家譜』江戸幕府編纂、堀田正敦総裁、1812年(文化9年)、国立公文書館デジタルアーカイブ

[2] 『三河物語』大久保彦左衛門忠教著、1622-1626年頃成立、穂久邇文庫(愛知県豊川市)保管

[3] 『新訂 寛政重修諸家譜』全22冊・索引4冊、高柳光寿・岡山泰四・斎木一馬編集顧問、続群書類従完成会/八木書店、1964-2010年

[4] 『日本思想大系26 三河物語』斎木一馬・岡山泰四校注、岩波書店、1974年

[5] 「尾張藩・尾張徳川家の基礎知識」徳川林政史研究所、2020年代

[6] 「渡邊半蔵家‐徳川を支えた忠義の槍‐」展示資料、豊田市郷土資料館、2021年

[7] 『War and Faith: Ikkō Ikki in Late Muromachi Japan』Carol Richmond Tsang、Harvard University Asia Center、2007年

[8] 『日本人名大辞典+Plus』講談社、2015年改訂

[9] 『渡辺半蔵家と尾張藩』渡辺守綱公顕彰会叢書 第13集、2013年

[10] 豊田市教育委員会・歴史文化課「武将コラム『渡邉守綱』」豊田市観光サイト

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