「日本一の槍」と呼ばれた武将・後藤又兵衛の栄光と悲劇

目次

はじめに

戦国時代最後の激戦、大坂夏の陣。濃い霧が立ち込める早朝、わずか2,800の兵を率いた一人の武将が、10倍近い徳川の大軍に立ち向かいました。
その名は後藤又兵衛基次。
かつて「黒田八虎」と称された名将は、なぜ主君を捨て、なぜ豊臣方として散ることになったのでしょうか。

名軍師・黒田官兵衛に育てられ、16,000石の城主にまで登りつめながら、「奉公構」という再就職禁止令によって8年もの浪人生活を余儀なくされた男。
その波乱に満ちた生涯から、戦国から江戸への大転換期における武士の生き様が見えてきます。

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「槍の又兵衛」後藤基次 | 戦国最後の猛将が駆け抜けた波乱の生涯|hiro | ゆる歴史かわら版 はじめに 濃霧に包まれた早朝、たった一人で数万の大軍に立ち向かった男がいました。 後藤又兵衛基次―「槍の又兵衛」「日本一の槍使い」と称された戦国最後の猛将です。 黒...

目次

  1. 黒田官兵衛に育てられた天才武将
  2. 朝鮮出兵と関ヶ原での輝かしい戦績
  3. 主君・黒田長政との決裂と出奔
  4. 「奉公構」がもたらした8年間の浪人生活
  5. 豊臣家による破格の待遇での招聘
  6. 道明寺の戦い──孤軍奮闘の最期
  7. おわりに

1. 黒田官兵衛に育てられた天才武将

後藤又兵衛基次は、1560年頃、播磨国(現在の兵庫県)に生まれました。
父は地侍の後藤新左衛門で、別所氏に仕えていましたが、1580年の三木城落城で主家が滅亡すると、後藤家も没落の憂き目に遭います。

幼くして孤児となった又兵衛を引き取ったのが、稀代の軍師として名高い黒田官兵衛でした。
官兵衛は又兵衛を実子同然に養育し、嫡男・長政とともに英才教育を施したと伝えられています。
単なる武芸だけでなく、戦況を冷静に分析し、最小の犠牲で最大の成果を上げる合理的な戦術──。
官兵衛から学んだこの「軍師の視点」が、後の又兵衛の軍事的成功の礎となりました。

2. 朝鮮出兵と関ヶ原での輝かしい戦績

1587年の九州攻めでは、又兵衛は黒田軍の先鋒として顕著な活躍を見せます。
官兵衛が豊前国を与えられると、又兵衛も重臣の一人としてこれに従いました。

さらに特筆すべきは、1592年から始まる朝鮮出兵での功績です。
1593年の第二次晋州城攻防戦では、又兵衛が独自に考案した「亀甲車」という装甲車を用いて城壁を突破し、加藤清正の部隊と一番乗りを競い合いました。
この戦いで又兵衛は、単なる武勇だけでなく、工学的な知識と戦術眼を兼ね備えた指揮官としての才能を証明したのです。

1600年の関ヶ原の戦いでは、黒田長政軍の先鋒として石田三成軍と激突しました。
この戦功により、戦後の筑前52万石移封に伴い、又兵衛は大隈城主として16,000石を与えられます。
「黒田二十四騎」「黒田八虎」に数えられる黒田家筆頭の猛将として、その名は天下に轟きました。

3. 主君・黒田長政との決裂と出奔

しかし、1604年の黒田官兵衛の死が転機となります。
新主君となった長政は、江戸幕府の成立に伴い、個々の武将の独立性を認めない「近世大名」への脱皮を急いでいました。

一方、又兵衛は「官兵衛直伝のプロフェッショナル」としての自負が強く、長政の統制的な組織運営に批判的でした。
また、隣国の細川忠興との親交も問題視されます。
長政と忠興は犬猿の仲であり、又兵衛が忠興と書状を交わすことは「内通」の嫌疑をかけられる十分な理由となったのです。

ここには、現場での自由裁量と個人の武功を重んじる「戦国型武将」と、組織の統制と主君の絶対権威を優先する「近世大名組織」との、根本的な価値観の衝突がありました。

1606年、ついに又兵衛は一族を連れて黒田家を出奔します。16,000石という破格の地位を捨てての決断でした。

4. 「奉公構」がもたらした8年間の浪人生活

又兵衛の出奔に対し、長政は「奉公構」という過酷な制裁を執行しました。
これは、主君の許可なく離職した家臣について、他の大名が雇用しないよう回状を出す措置です。

奉公構により、又兵衛は細川忠興や池田輝政、福島正則、前田利長など、多くの大名から招聘の声がかかったにもかかわらず、正式な仕官が永久に禁じられました。
超一級の軍事スキルを持ちながらも、組織の論理によって就職市場から完全に「排除」されるという、厳しい現実に直面したのです。

又兵衛は京都などで困窮した浪人生活を送りますが、皮肉なことに、江戸幕府による平和の到来が「戦のプロ」を希少化させました。
又兵衛の「日本一の槍」というブランド価値は、就職制限下にあっても衰えることなく、むしろ伝説的な武勇伝とともに高まっていったのです。

5. 豊臣家による破格の待遇での招聘

1614年、徳川との最終決戦を予期した豊臣秀頼は、軍事的指導者の欠乏に直面していました。
そこで、奉公構を無視した破格のスカウトが行われます。

豊臣家が又兵衛に提示した条件は、黄金200枚、禄高2万石という破格のものでした。
これは、近世的な統制社会である江戸幕府への最大の反旗であり、組織の存亡がかかる局面では、「訳ありの人材」であっても圧倒的な実力を最優先するという「超実力主義」の決断でした。

又兵衛は真田信繁、毛利勝永、長宗我部盛親、明石全登とともに「大坂城五人衆」の一人として迎えられ、各地から集まった浪人衆の指揮官となります。
冬の陣の今福・鴫野の戦いでは、自ら最前線で槍を振るい、徳川方の大軍を押し戻す軍功を挙げました。

6. 道明寺の戦い─孤軍奮闘の最期

1615年5月6日、大坂夏の陣の天王山となる道明寺の戦いが始まります。
又兵衛は2,800の兵を率いて先発し、国分付近で徳川軍を迎撃する作戦でした。
真田信繁や毛利勝永の後続部隊と合流し、狭隘な地形を利用して10倍の敵を撃破する計画だったのです。

しかし、当日未明に発生した深い濃霧が、すべてを狂わせました。
視界不良により後続部隊との連絡が途絶え、又兵衛の部隊は単独で小松山において、伊達政宗、水野勝成、松平忠明ら率いる徳川軍20,000以上と対峙することになります。

数倍の敵を前にしながらも、又兵衛は「ここで自分が引けば豊臣の士気が下がり、軍は瓦解する」と判断しました。
合理的な戦術判断を超え、組織のプライドを守るための「覚悟」を優先したのです。

約8時間に及ぶ激戦の末、又兵衛は矢傷を負い、従者に首を討たせて自害しました。
その壮絶な最期について、敵方の記録にも「御手柄、源平以来あるまじき」と記されています。
又兵衛の死は、個人の武勇が組織の論理に対抗し得た最後の時代の終焉を象徴するものでした。

7. おわりに

後藤又兵衛の生涯は、戦国から江戸への大転換期における武士の姿を鮮明に映し出しています。
官兵衛という名軍師に育てられ、卓越した武功で黒田家の重臣にまで登りつめながらも、価値観の対立から主君と決裂。8年もの浪人生活を経て、最後は豊臣方として壮絶な最期を遂げました。

奉公構という制度が示すように、江戸時代には個人の能力よりも組織への忠誠が重視されるようになります。
又兵衛の悲劇は、実力主義の戦国時代から、統制と秩序を重んじる近世社会への移行期における、武士たちの苦悩を物語っているのです。

「日本一の槍」と称された男の生き様は、今も多くの人々の心を打ち続けています。


参考文献

  • 『黒田家譜』『黒田家臣伝』(貝原益軒著、1703年頃成立、国立国会図書館デジタルコレクション)
  • 『大坂御陣覚書』(松井家文書、柏原市教育委員会所蔵)
  • 「小松山の戦いで散った後藤又兵衛の名は?」天野忠幸(柏原市公式サイト、2015年)
  • 「後藤基次」『改訂新版・世界大百科事典』(平凡社、ジャパンナレッジ収録)
  • 『黒田24騎小傳(8) 後藤又兵衛基次』(福岡市「福岡城むかし探訪館」)
  • Finding a Place: Rōnin Identity in the Tokugawa Period (Harvard University, DASH)
  • Osaka 1615: The Last Samurai Battle, Stephen Turnbull (Osprey Publishing, 2006)
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