「信長公記」を書いた武士・太田牛一とは? 戦国時代を記録し続けた男の87年

目次

はじめに

「織田信長」といえば、戦国時代の代名詞として誰もが知る歴史上の人物です。
でも、その信長の生涯を最も正確に記録した人物が誰かを知っている人は、意外と少ないのではないでしょうか。

その人物の名は、太田牛一(おおた ぎゅういち)。弓の名手として戦場に立ち、やがて優秀な行政官として天下人(信長・秀吉)に仕え、87年の生涯をかけて歴史を書き続けた武士です。
教科書にはほとんど登場しませんが、現代の歴史学者が信長を語るとき、必ず頼りにするのが彼の著作「信長公記(しんちょうこうき)」です。

なぜ400年前に書かれた記録が、今も最重要史料として使われ続けているのか。
その秘密は、牛一の並外れた正直さと執念にありました。

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太田牛一 | 『信長公記』——時代を書き続けた男の生涯|hiro | ゆる歴史かわら版 はじめに 戦国時代の歴史を学ぼうとするとき、必ず行き着く一冊の記録があります。それが『信長公記(しんちょうこうき)』です。 この書物を著したのは、太田牛一(おおた...

目次

  1. 太田牛一とはどんな人物か
  2. 弓の名手から「記録する武士」への転身
  3. 「信長公記」はどんな本?その驚くべき正確さ
  4. 三代の天下人に仕えた吏僚(りりょう)人生
  5. なぜ「信長公記」は信頼できるのか
  6. まとめ

1. 太田牛一とはどんな人物か

大永7年(1527年)、太田牛一は尾張国春日井郡(現在の名古屋市北区付近)の土豪の家に生まれました。
幼少期は近くの成願寺で僧侶として修行しましたが、戦乱のなかで還俗(出家をやめること)し、武士の道へと進みます。

最初に仕えたのは尾張の守護大名・斯波義統(しばよしむね)でした。
天文23年(1554年)に義統が暗殺されると、牛一は織田信長のもとへ身を寄せます。
ここから、歴史に残る長い記録者人生がはじまりました。

ちなみに牛一の名前の読み方は「ぎゅういち」が一般的ですが、「うしかつ」とする研究者もおり、現在も確定していません。


2. 弓の名手から「記録する武士」への転身

信長のもとに入った牛一は、まずその弓の腕前で頭角を現します。
「弓三張りの衆」と呼ばれる信長直属の精鋭6人衆に選ばれるほどの実力者でした。

永禄7年(1564年)、美濃の堂洞城(どうほらじょう)攻めでは、建物の屋根の上に単身で登り、無駄矢なく敵を次々と射倒す活躍を見せます。
感激した信長は3度も使者を送って褒め称え、知行(給与代わりの土地)を大幅に増やしました。
このエピソードは「信長公記」本文中で牛一自身の名が登場する数少ない場面のひとつです。

しかし牛一の真の才能は、戦場での武勇よりも「正確に記録する」能力にありました。
永禄12年(1569年)頃からは、有力家臣・丹羽長秀(にわながひで)の補佐役として京都の寺社行政を担当します。
文書を作成し、土地の境界争いを調停するなど行政官として活躍しました。
上賀茂神社の記録には、牛一が何度も筆を贈られたという記述が残っています。
当時の貴重品である筆をそれほど多く消費したことは、日々大量の文書を書いていた証拠にほかなりません。


3. 「信長公記」はどんな本?その驚くべき正確さ

「信長公記」は、信長の生涯を記録した歴史書です。
信長の上洛(1568年)から本能寺の変(1582年)までの15年間を1年につき1巻でまとめた「本編15巻」と、それ以前の時代を記した「首巻」を合わせた全16巻で構成されます。

この本の最大の特徴は、「ないことを書かない、あることを省かない」 という信念です。
池田家文庫本(岡山大学所蔵・国の重要文化財)の巻末には「もし一つでも嘘を書くなら天道(天の意志)に背く」と宣言されています。
この言葉は実際の記述内容にも反映されていました。

たとえば安土城の記録では、石垣の高さ・天主の柱の本数・各部屋の装飾・関わった職人の名前まで、まるで設計図のように細かく書き記しています。
安土城は本能寺の変後に焼失しましたが、この記述のおかげで現代の研究者が建物の姿を推定できています。

また本能寺の変のとき、牛一は現場にいませんでした。
それでも逃げ延びた侍女(じじょ)への聞き取りを行い、信長が「是非に及ばず(しかたがない)」と言って弓で応戦したという最期の様子を詳しく記録しています。


4. 三代の天下人に仕えた吏僚人生

本能寺の変後、牛一は主君の丹羽長秀に仕え続けました。
天正13年(1585年)に長秀が亡くなると、天正15〜17年頃(1587〜1589年頃)に豊臣秀吉に召し出され、検地奉行(土地の調査役)や代官として活躍します。

慶長3年(1598年)には醍醐寺(京都)での花見の場で、寺の記録者・義演(ぎえん)が牛一を「信長公以来、当代の記録を書いている者」と紹介しています。
この記述は義演自身の日記に残されており、「信長公記」が1598年頃には存在していたことを示す同時代の証拠です。

秀吉の死後は豊臣秀頼に仕え、さらに関ヶ原の戦いの記録「関ヶ原合戦双紙」を徳川家康に献上するなど、時代の変化に柔軟に対応しながら記録者として生き続けました。
慶長15年(1610年)、84歳のときにも自ら筆をとり、池田輝政(姫路城主)に自筆の写本を献上しています。
記録への執念は、晩年まで衰えませんでした。

慶長18年(1613年)3月、太田牛一は大坂玉造の屋敷で病没しました。
享年は87歳前後とされています。


5. なぜ「信長公記」は信頼できるのか

江戸時代、小瀬甫庵(こせほあん)という人物が牛一の記録をもとに「甫庵信長記」を書きました。
こちらは読みやすく脚色されましたが、同時代の武士・大久保彦左衛門は「信長記を見るに、偽り多し。三分の一は事実だ」と酷評しています。

一方、牛一の「信長公記」は後の研究で次々と正確さが実証されてきました。
歴史研究者の藤本正行氏は桶狭間の戦いの「奇襲説」や長篠の戦いの「鉄砲三段撃ち説」がいずれも後世の創作だと実証しています。

現存する牛一の自筆本は4組あり、池田家文庫本と建勲神社本(京都)はともに国の重要文化財です。
写本を含めると70本以上が確認されており、2011年には英訳版(ブリル社刊)も出版されて世界中の研究者に利用されています。


まとめ

太田牛一は、弓の名手として始まり、卓越した行政官・記録者として三代の天下人に仕えた人物です。
「ないことを書かない、あることを省かない」という信念のもとに書き続けた「信長公記」は、400年の時を超えて現代の歴史研究を支える最重要史料であり続けています。

信長の言葉、安土城の姿、本能寺の夜——それらが今の私たちに伝わっているのは、一人の武士が生涯をかけて記録にこだわり続けたからです。
「残す人」もまた、時代を超えて社会に貢献できる——太田牛一の生き方は、そんなことを静かに教えてくれます。


参考文献

  • 太田牛一『信長記』(池田家文庫本)慶長15年(1610年)奥書、岡山大学附属図書館所蔵・国指定重要文化財
  • 太田牛一『信長公記』(建勲神社本)、京都・建勲神社所蔵・国指定重要文化財
  • 義演『義演准后日記』慶長3年(1598年)3月17日条、醍醐寺所蔵
  • 田中久夫「太田牛一『信長公記』成立考」『帝國學士院紀事』5巻2-3号、1947年、DOI: 10.2183/tja1942.5.137
  • 金子拓『織田信長という歴史――「信長記」の彼方へ』勉誠出版、2009年
  • 和田裕弘『信長公記――戦国覇者の一級史料』中公新書、中央公論新社、2018年
  • 中村名津美「太田牛一『信長公記』編纂過程の研究」『龍谷大学大学院文学研究科紀要』35巻、2013年
  • J.S.A. Elisonas & J.P. Lamers, The Chronicle of Lord Nobunaga, Brill, 2011年, ISBN 978-90-04-20162-0
  • 藤本正行『信長の戦争――「信長公記」に見る戦国軍事学』講談社学術文庫、講談社、2003年
  • 堀新 編『信長公記を読む』(和田裕弘「信長公記の諸本」所収)吉川弘文館、2009年
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